小柿という地名はその昔、小垣内(こがきうち)といわれ、元亀天皇(1570〜1591)の頃は、丹波八上の城主、波多野秀治の領地であった。九鬼長門守の時代になって九鬼領となり、小野460石、乙原480石、小柿804石となる。明治維新までは、この村には今の感応寺の他に同寺の末寺も多く太山寺、慈徳寺、太福寺、慶徳寺があったが、自然消滅や明治2年の廃仏毀釈により一村一寺の目標を示すお布令がお上より出され、一ヶ寺を残して全て廃寺となった。
 比僧山感応寺は、小柿のはずれに位置し、渓谷のすばらしい景勝地を前に眼下に流れる羽束川のせせらぎを耳に比僧山の中腹から山頂にかけて本堂の観音堂があり、遙か遠方に見え隠れするお堂の屋根、杉や檜の樹林の中に急な勾配に設えられた自然石の苔むした石段は日の光をさえ遮られ、真夏でも冷気を増し肌寒い。

 当寺は、嵯峨天皇の御所として造営された、京都大本山大覚寺の直末で大化2年(646)法導仙人が、千手観世音を作って開基創建されたと言われる。
 その昔、母子の三国岳(648m)山腹の通称「龍神池」のほとりにあったが戦国時代、織田信長の丹波平定のおり、兵糧を感応寺から密かに永沢寺村を経て美濃城を過ぎ小枕村(現篠山市)から八上村に至る間道を通り八上城に送っていたため、明智光秀の夜襲にあい消失、本尊は寺の僧により「こうもり岩」の洞窟に難を逃れたと言われる。 又三田の民話によると、寺の寺宝であった、金の鶏の置物が、その時池に投げ込まれたまま見つからなかった。何百年かのち、龍が風と水を呼ぶ龍神に変身し、「龍神池」から鶏の鳴き声が聞こえた。「それはきっと金の鶏に違いないと言うことになった」・・・・と。
 現在の感応寺はのちに中興清運法師が今の地に再建し今日に至っており、同法師が第一世でそれ以前は過去帳消失により不明。
 当寺には「眼の仏様」の伝説がある。第七世仙海法師が、眼病を患ったとき、 本尊観世音菩薩に一ヶ月間願を立てて日夜祈念すれば、夢に気高い女人が現れ自ら手を取って、光明加持の秘宝を授けられたとされ「眼が悪ければ感応寺へ」と今でも眼の仏様として地元のお年寄りに崇拝されている。
  寺宝には弘法大師行状図絵八巻がある。この図絵は文化四年(1807)から発願して三ヶ年を費やし完成した空海の一生を描いたもので、この素晴らしい作品は毎年4月21日に弘法大師の日にご拝観できる。絵師武田春祥作といわれ昭和62年、市の文化財となった。
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